結論を先に述べる

「結論を先に述べる」事が重要なのは何故か? 答えは二つ。「レポートラインの中で効率よく情報を伝達できる」「分かってない人を分かった気にさせることができる」である。このやり方は非常に効率的な反面、情報の上澄みだけを拾う行為となるため、その真相や本質を捉えるのが難しくなる可能性がある。

以下は個人的な経験の話。ここ最近は、非常にどうでもいい情報の洪水の中から、有効なものを拾い集めて物事を判断するという作業に明け暮れている。まず結論としてどうか、事実として何があるかを広い、それらが確かたる所以をそのあとの文章から検証するというプロセスとなる。

このような状況下において、結論が先に来るというのは非常に重要だ。たくさんの情報の中で、結論をつなぎ合わせていく事で筋が通れば、概ねそれぞれの情報は確からしさを持っているといえる。その中で矛盾であるとか特異な結論が見られる場合、「確かたる所以をそのあとの文章から検証する」というステップを踏めばよい。

最近、ブログでもネットニュースでもなんでもそうだけれど、長ったらしい文章に対して「で、何が言いたいの」と思うようになってきた。「誤解、曲解する事が減ってきた」「理解できなかった部分はなにか」を適切に把握できるようになってきた半面、どうどでも取れる解釈に対して、自分自身のバックグラウンドを掛け合わせて自分なりの考えを巡らせるという事はほとんどなくなった。酷い時には文章一つ一つを読まず、単語を拾っているだけという有様である。

年を重ねるにつれて、明らかに文章を読むという能力が落ちてきている。うちの会社を見回すとそういう人が多いので、会社の色に染まっているのかもしれない。文章を読む事のできない、PowerPoint で作られた、いわゆる絵や図がないと資料を理解できないという類の人になりつつある。

そんな中で、わかった気にさせる、わかった気になるためには結論が先に来るのが手っ取り早い。わかりやすい文章を求め、理解出来ないことは「伝え方が悪い」という事にする。ただ、本当にその図式はいかなるケースにおいても通じるだろうか。

本質というのは確かにシンプルであるかもしれないが、それを理解するためには複雑なプロセスを経たり、そもそも十分なバックグラウンドが必要な事も多々ある。結論のみを吸収するというのは、そういった面倒なところを全て取っ払ってしまう。それは効率的な反面、誤った判断や自身の成長を阻害するといったリスクを含んでいる事を認識するべきだろう。