気づくために知覚しておくということ

(ジャズが好きな日本人の中では)有名なベーシストである納浩一さんが下記のようなツイートをしていました。



「グルーヴがない」だとか、「グルーヴしなさい」往々にして言われた方はわからないです。「スウィングしろ」とかいう類いも同様ですが、そう言われてもね、という感じになります。そういった意味で、言葉は無力です。お互いに共通の認識、体験、背景を持っていないと、言葉で情報を伝達する事はできません。

ただし、言葉として知っておく、知覚しておくというのは重要だと思います。「グルーヴというものは何の事か分からなかったけど、何年も演奏していたら、どうやらそれらしきものを感じられるようになってきたよ」という風に。こう言うと、いささかうさんくさいですが別の例で言うと「徹底的に確認しろと言われていて、自分では確認していたつもりだったけれど、後になってミスが見つかってしまった。徹底的に確認するというのはそういう事だったのか」といった具合です。

言葉では分かっていたつもりでも、肌感覚で実感できるかどうかというのは別です。ではその言葉を知らなくてもいずれそのタイミングになれば実感できるんじゃないか、と言われると、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

しかしながら、言葉として引っかかりを持っていなかったが為にその体験を強く認識できない、感覚としては得られていても抽象化・一般化できずにそのまま自身から消えてしまう、そういった可能性は多いにあると考えられます。

梅という言葉を知らなければ、歩いている時に梅の美しさに気づけないかもしれないようなものかなと。