シン・ゴジラを観た。

シン・ゴジラを観た。

ゴジラはとにかく恐ろしい存在だった。虚構であるゴジラを恐ろしいと感じさせる事、この映画のテーマなのではないかと思う。

恐ろしいと感じるのはどのような条件によるか。簡単なのは、自分に降りかかる事が想像できるかどうかではないか。森博嗣の小説では次のような問いかけが時々ある。「殺人者が人を殺す理由を考えるのは何故だろう」。「男女のもつれ」「金銭トラブル」「異常な精神状態」。テレビで投げられる、そういった、一言で表されるようなレッテル。実際には原因なんてものはどうでもよくて、何かしらの理由をつけて「それだったら自分の場合はそういった事に遭う可能性が少ない」と納得する。そうすれば、その恐ろしさから遠ざかる事ができる。

シン・ゴジラが恐怖を演出する方法は、それと真逆をする事。政府と官僚組織の動き、自衛隊で実際に使われる戦車やヘリといった実機や指揮系統。実際にそれに近い環境に従事している人や知識がある人にはリアリティを生むし、そうでなくても、細部をきちんと描写しているものは、それが分からない人でも何となく現実感が湧く。魂は細部に宿るのだ。ここらへんは SF では必ず押さえておくべき部分なので、監督の手腕が発揮されている。

また、そういった描写以外にも、例えば父親と母親が避難の際に我が子にヘルメット(多分、自転車用だと思う)をかぶせ、リュックを背負わせるシーンがある。逃げる人の中にそれを写真に収めようとする人がいたりする。そういった日常の延長を想像させる沢山の描写があって初めて、夜にゴジラが闊歩するシーンで人はゴジラに恐怖を感じる。

白黒映画だった頃(がどうだったかは分からないが)と異なり、我々は、ゴジラが首都を破壊していく様を見て恐怖していたわけではない。そこに自分たちの生活があるように重ね合わせて、初めて恐怖したのではないか。

振り返ってみると、「日本政府と官僚組織の歯がゆさ」とか「窮地の中でも日本は団結すればどうのこうの」とかいうのは、恐怖を作り上げるために生まれた副産物でしかないように思った。庵野総監督が大組織のヒエラルキーに悩むより(興味があるというより)、クリエイターとしての悩みの方が尽きない(世間の期待を超えるエヴァを作る)だろう。どうのこうのなったのも、映画をエンタテイメントとして形にするためには他に選択肢がないだろうし、といったところ。終わらせ方としては、映画として一番恐怖を与える表現だったかもしれない。